どうすれば10万年後も人類が”心”を持ち続けられるだろうか?

ヒトに出来てマシンに出来ないこと、ヒトにあってマシンにないもの—。

 長らくAI(人工知能)の分野で議論されてきたこととして、「心(感情)」というテーマがありました。なぜヒトには心があるのか—。それは『限られた時間の中で答えを出さなければならない状況』において、その答えのヒントを見い出すことが出来ます。

 かつてAIの分野ではヒトの心は”脳”にあると考えられてきました。脳が感情を生み出している、という考え方です。そのため、脳の動き・性質を研究し、模倣しようと試みてきました。

 ムーアの法則に則ってシリコンチップの性能は倍々ペースで向上し、時間あたりの計算量は飛躍的に増加しました。そして、ソフトウェアアルゴリズムも最適化され、ある厳密な条件下においてはヒトを凌駕することに成功しました。チェスという厳密な制約があるゲームでチェスの名人を打ち負かしたのです。しかし、制約条件が厳密でない条件下では、未だにヒトよりも遥かに未熟であり、ヒトが一瞬で出す答えすらも導き出せないのです。

 例えばある風景を見せて「何を思いますか?」という質問にマシンは答えられないのです。初対面の人物を一目見て、信頼出来る人物かどうかの判断をするためにも、ヒトは心(感情)を用いて判断します。マシンが同様にその判断をしようとすると、とてつもなく膨大な容量のデータを用いて計算結果として答えを出そうとしますが、もし暴漢などに対峙したときに身の危険を回避するために一瞬で判断しなくてはいけない場面では、答えの算出が到底間に合わないのです。ヒトであれば完全に正確でないにしろ、マシンよりも遥かに速く、高い正解率で判断することができます。心(感情)はいわば解を導き出すためのショートカット、ワープメソッドなのです。

 そしてここで物理的な限界が訪れます。ムーアの法則が崩れ出したのです。いつか物理的にこれ以上チップのサイズを小さくすることが出来なくなります。チップあたりの性能をこれ以上向上させることが出来なくなる日が来たのです。

 そこで着眼点を変えることを試しました。ヒトとマシンの違いに着目し直したのです。そう、ヒトにあってマシンにないもの、それは”肉体”です。

 心は”脳”に宿るのではなく、”脳を含めた肉体全体”に宿るのではないか、という発想が生まれました。古くからヒトは心の場所を胸の中心にあると定義してきました。これは心臓の鼓動が心の動きに連動しているためという判断が影響していると考えられますが、肉体の中心付近である、という考え方でみれば、あながち間違っていないのかもしれません。

 ヒトの脳への入力情報として、視覚からのテキスト(文字・言語)ベースの情報や画像情報のみではなく、肉体からの聴覚、嗅覚、味覚、触覚、痛覚などの多くの情報を入力情報として扱いミックスして処理することで、心は宿ると考えたのです。ミックスした情報で、疲労感、高揚感、追憶感、焦燥感、など様々な多様で複雑な感覚を導き出し、驚き、喜び、悲しみ、笑い、などが生み出されるのです。

 現在、テクノロジーの進化により、ヒトはテキストベースの情報処理の比重が加速的に大きくなってきています。Eメール、SNS、チャット、などの便利なツール環境がヒトのコミュニケーションの領域をテキストベースへと引っ張っていきました。そしてこの流れはまだしばらくは続くと思います。

ヒトの入力情報の中でもテキストベースの情報量が、他の肉体からの入力情報に比較して飛躍的に増えたのです。そしてかつては肉体労働が求められてきましたが、今後はより知識労働の価値が上がり、更に肉体労働の場面は急速に減少していくと予想されます。

 もしこのままいけば、脳への入力情報はマシンと変わらなくなり、心を鍛え育てるための入力が欠けた状態にさらされ、その結果、ヒトは心を失う可能性もあります。それは新たな進化かもしれませんが、その進化の代償は”判断力の喪失”となるのです。

 運動をするとなぜか心に作用している感覚。視覚情報に偏った現在のヒトだからこそ感じる新しい感覚は、それを暗に示唆しているとも言えます。肉体運動はヒトの心のために必要とされるようになっていくのです。

 このテキストベースのコミュニケーションの流れの加速を危惧する意見もあり、そのためのテクノロジーを放棄すべきという暴論にも出くわします。しかし我々は、テクノロジーの進化自体を止めるのではなく、追いついていない領域(=肉体運動)の進化を押し進めてバランスを取ることに挑戦すべきと考えています。

どうすれば”全人類 総アスリート時代”を創出することができるだろうか?

“athlete:アスリート” という言葉の定義・使われ方を変える

 スポーツをもっと生活の日常に組み入れた環境を創出することで、全人類がアスリートであるという状態を生み出し、“athlete:アスリート”という言葉の定義・使われ方を変えます。今はスポーツを行っている競技者を意味し使われますが、全人類がアスリートになれば、”athlete:アスリート”の意味は特定の人を指すのではなく、競技をしている・スポーツを楽しんでいる状態を形容する言葉になるでしょう。それに基づき、『全人類人口(=GIGA:10億単位)がAthlete』である、という理念を具現化した最終目標を意味する、”GiGAthlete:ギガスリート”という社名をシンボルとしました。

 スポーツが、もっと簡単に取り組めるレクリエーションとなることで、消費型の娯楽に時間とお金を浪費するのではなく、積み上げ型の娯楽に時間とお金を投資する文化を創成します。そして社会の中での役割認識を確認・教育するツールとして、より人生が豊かになるための次世代のスポーツ文化形成を行い、スポーツのもつ可能性を最大化していきます。

 競技性が高次に向かってもスポーツをレクリエーションとして捉える事が出来る価値観を持った社会というのは、それだけ政治・経済が安定しており、市民の道徳性の成熟が進み、比較的高度に安定している社会の象徴とも言えます。

スポーツビジネスマーケットを5倍へ.

 日本の選手が海外に活躍の場を求めて出て行ってしまう昨今、日本のスポーツ産業は衰退の一途を辿っています。スポーツ大国アメリカと比較をしても市場規模は10〜15倍違います。そして日本では子供のスポーツ離れが始まっています。このままでは日本のスポーツ産業は土台から脆く崩れてしまいかねません。
 未来の選手・ファン・運営者のために。
 日本のスポーツビジネスを成長させる必要があります。そして実は一番大きく成長が見込めるフィールドもスポーツ産業にあるのです。

3者のインセンティブバランス

 スポーツをレクリエーションとして取り組むことの出来る価値観は、実は先進国の特徴でもあります。
「生活のために報酬を稼ぐ」というものはプロスポーツの一面ではありますが、スポーツにはそれ以外にも「楽しむ」という面もあります。
 スポーツで「楽しむ」ためには整備された環境が必要になり、そしてその価値観を理解し合える仲間も必要になります。
 環境を提供するプロモーター、競技する選手、応援するファン。
 この3者のインセンティブバランスを保ちながら、効果を最大化することが重要になります。

スポーツを再発明する

 テクノロジーの進化はありとあらゆる分野に変革をもたらしています。
 そしてこのスポーツの分野にもその可能性があります。
 我々は最新のテクノロジーを取り入れることで今まで実現の難しかったことや、新たな価値を提供することに、積極的にそして果敢に挑戦していきます。
 かつてTVメディアというテクノロジーがスポーツのフェーズに変革をもたらしました。
 そしてメディアの多角化が進んだ今、あらたな変革がスポーツを変えようとしています。
 テクノロジーを追求することでスポーツに貢献できることが我々の強みでもあります。

そして世界はつながる

 スポーツは長らく国際舞台での交流の目的を果たしてきました。
 トップレベルでの競技として国家代表の役割を果たしながらも、自国のアピールと相手国への興味・理解を促してきました。
 これからは市民レベルでの競技であってもこのグローバル化を求めるニーズは顕在化してきます。
 もっともグローバル化にフィットする分野でもあるスポーツという領域は、ボーダレスに私たちの生活に変化の影響を与えていく、新しい期待という可能性を秘めています。

city-night-lights-cars_4460x4460.jpg